謹賀新年 令和四年 年始めの辞

令和四年 新年が明けました。おめでとうございます。

これからの一年だけではなく、今後の日本の復活、隆盛にとり肝となる嘗ての日本人の真の営みと自らの先人から受け継ぐ誠の力に気づいてもらえるよう、及ばずながら可能な限りの努力を重ねたいと思います。

趣味として、健康のため、体力造り、美容のため、強くなるため、武術への興味、護身術として、教育のために、・・・様々な理由で合氣道を始める人がいます。どのようなきっかけでも大丈夫です。機会はなんであれ、共に汗を流して行う稽古を経て自らの祖先から受け継ぐ誠の力を信じ、自分だけではなく家族、地域、そして社会のために為すべきことを為せる人を育てることが我々の本望です。貴方アナタ自身が幸せになることが家族のそして社会の幸福に繋がることならばそれも大切なことなのです。

重大な決意をもって始めるに越したことはありませんが、肩の力を抜いてもっと軽い気持ちで始めても或いは続けても大丈夫です。また、今技が進まなくて悩んでいても、歴史が示す通り、本人が諦めたときが本当の負けが決まるときであることを心の隅に置いて、飽かず諦めず当会での稽古に臨んでもらえたらと思っています。悩んだら指導者に相談するのが大切で、大仰な講話拝聴ではなく軽い会話によってあっさり解決することもよくあります。また、しばらく休んでみると新たな気持ちで再開できることもあります。あまり長く休むと復帰が難しくなりますが、常に前向きに山谷を乗り越えていってもらいたい。
 避けて通れない、外せない中核や反復が必須な部分はあるものの、マンネリ講義のように決まったことを年中否応なく押し付け、型にはめるのではなく、限界はあるものの指導者は打てば響く小槌のようなものであらねばならないと思っています。

表面上の向き不向きは確かにあります。多分に漏れず、力が強い、体力がある、体格が良い、動きが素早い、のみこみが早いなど、天賦の才、天性の感とも云える能力は当初は有利に働くでしょう。しかし、最も大切なのは祖先から受け継ぐ日本人の誠の血流とそれを心身に宿した己を諦めないということです。はじめから自信のある人や自意識過剰を含めて能力のある人は、なにも苦労して武道武術を修める必要はなく、実際にこれらの人はある程度で慢心しその先を知らずに終わることが多いのはなにも合氣道だけの話ではありません。兎と亀の寓話はまさに真也といえるでしょう。自らの欠点を意識し、恐れることなくそこに正面から向き合える人、目的意識が高く求道精神の強い人が何事も為せる人であるのは、むしろ常識として覚えておくべきことでしょう。

当会の合氣道では一般の合気道のイメージと違って継承する武器技が多いことをお知らせしていますが、その内容については殆ど出していません。体術もそうですが演武などで一般に対して稀に披露する技術は極めて限定しています。会員となっても段階を踏まねば、中伝(凡そ参段から)、奥伝は全く接することがありません。殊武術に関しては、最近ネット上でよく見かけるこれ見よがしの表面技術(のようなもの)の垂れ流しを真似るは愚。不特定多数の目に曝しているものは、仮にどれほど元が良かったとしても既に技術・武術とは言えません。昨年から当会でも始めた動画配信でも体技はあまり見せる予定はないのです。それは一つには「武道は見世物ではない」という開祖の御言葉を守っているからでもありますが、先人から受け継ぐ一つ一つの技術を粗末に扱わないことが、諦めてはいけないという思いに繋がるからに他ならないのです。

当会関連の道場は地域は限られますが複数あります。当会では少ない時は一人から始まり、二~三人、十人前後、数十人以上の道場もあり様々です。相手がいれば、術の稽古は体術、武器ともに大いに行えます。しかし冷静に考えると分かりますが人数は少ないほど内容が濃くなり深く進みます。多寡に関わらずいつでもどこでもそれなりの稽古ができるのが我が惟神合氣道です。思えば、確かに中核となる技の感覚とその磨き方を学んだのは師匠との一対一の稽古の場でした。それが未だに続く武道遍歴の中核を成しています。

人が多かろうと少なかろうと、又幾ら巧みな武術を頭で覚えようとも胆力がなければ無に帰します。術を覚えることと胆力から発する勇気は別次元のもの。合氣は胆力を氣の結び(産毘)で漸次涵養カンヨウ増進するもの。そして氣の稽古(氣を練る)は一対一の指導を受け一人でしか行えず、月の満ち欠けの如く一様に進むわけでもありません。我が身も未だ途上にあるように、長い時間がかかるか、あるときふっと腑に落ちるか、どちらにせよやっていなければ養えるはずもありません。特に氣の興オコシは人を頼む心があっては不可能です。云わば独りの時ほど氣を練り芯が磨かれる、その時合氣の武器技を鍛錬しておくこと、並びに日本人なら必ずあるはずの清心と誠を貫く心が要カナメとなるのです。上質の清酒は日本でしか造れぬ事実に通じます。すべての人がそのように行えるとは限りませんが、一人でも多くの日本人が先人の歴史に思いを馳せながら体技を学び、苦労を重ね、体術、武器技共に奥伝に至るよう導かれることを願ってやみません。

チャイナ発の武漢熱に世界中が振り回されて二年あまり、日本での被害は他国に比べればはるかに軽微であったとはいえ、この人災ともいえる感染症が無ければまだお元気だった方々、それが原因で命を縮められてしまった方々のご冥福を祈ると共に、我々自身がこの経験を忘れず、今後も備えなければなりません。この災厄から我々はさらに多くのことを学びました。これまでも今後もチャイナ発の災厄によって世界中が汚染され続けるだろうということ。感染症が兵器に成り得るということ。大東亜戦争敗戦後、さらにはこの三十年の停滞の時代に日本は哀しいかな喉首を外国に握られた状態に陥ってしまっているんだということを。まずはあらためて正面から皆で考えれる社会にならねばならぬと。

常に他国から秩序・規則の変更(ゲームチェンジ)を強いられ、利用され、草莽にある国民の努力の賜物である知識や富を外国に吸い取られてきた日本が復活を遂げ己の足で歩けるようになる道筋の第一歩は、まさに国民一人一人が歴史の真実に気づき、己が置かれた場で為すべきことを為せるようになることです。
 飛躍でもなんでもなく、我々の正しい合氣への取り組みにおいて、当たり前に障害を乗り越えていく推進力は己の自己満足のためだけではなく、大家族たる日本国のためであらねばならないと思えるのです。

日本書紀によると今年は初代天皇 神武天皇ジンムテンノウ(神日本磐余彦尊カムヤマトイワレビコノミコト)が大和の橿原之宮カシハラノミヤにて即位されてから凡そ2682年目になります。

 

皇紀2682年 令和四年 壬寅ミズノエトラ 元旦

惟神合氣道 武産合氣會 崎川


/武産合氣會

合氣道と日本の歴史